2016-11-24 第192回国会 衆議院 憲法審査会 第3号
昭和二十九年四月、吉田内閣においてMSA協定が審議されている際、九条における自衛戦争の許容性について、この審議会でも出された資料にもある二十一年の六月の自衛戦争をも否定する吉田総理答弁を持ち出して批判したところ、言論人として朝日新聞副社長も務めた緒方竹虎副総理は国会答弁として次のように述べています。
昭和二十九年四月、吉田内閣においてMSA協定が審議されている際、九条における自衛戦争の許容性について、この審議会でも出された資料にもある二十一年の六月の自衛戦争をも否定する吉田総理答弁を持ち出して批判したところ、言論人として朝日新聞副社長も務めた緒方竹虎副総理は国会答弁として次のように述べています。
そもそも、内閣による政府解釈の変更の是非については、MSA協定の国会審議において、吉田内閣の自衛権に関する解釈の変更について問われた緒方竹虎副総理が、内閣の閣議によって公式に決めれば、前と解釈が違っても差し支えないと答弁し、続いて答弁に立った佐藤達夫内閣法制局長官、これは憲法制定に携わった方ですが、内閣内閣において正しいと信ずるとてその憲法解釈を打ち出すことは理論上は当然としています。
○福井委員 時間が参りましたのでこれで終わりますけれども、先ほど配らせていただいた紙の「爛頭の急務」というのは、緒方竹虎が保守合同の際に檄文を書きまして、自由党も解党、民主党も解党して自由民主党、人数が多い方の民主党は下にして、鳩山一郎としてはすごい太っ腹で、吉田茂の方を上にして自由民主党という名前にしたぐらいの保守合同が昭和三十年。
○舛添要一君 もう時間がなくなりますから時間厳守で参りたいと思いますが、昭和十八年の元旦の東京朝日新聞、緒方竹虎に頼まれて、私の郷里福岡の先輩である中野正剛が「戦時宰相論」という文章を書いている。東条英機はそれを見て、俺を皮肉って批判したなと言って発禁処分にするんですね。 実は、時間があればそれ全部紹介したいんですが、是非それは秘書官に言って、今日じっくりお読みいただいてください。
私、最後に、さきの大戦前に、中野正剛、当時の朝日新聞主筆の緒方竹虎に頼まれまして、これ一九四三年の日、元旦の紙面で東条英機首相を批判しました。国は経済によりて滅びず、敗戦によりてすら滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことによりて滅びるのであるというふうに論じました。
昭和二十九年三月、緒方竹虎は、時局を案ずるに、政局の安定は爛頭の急務であって、内外庶政の刷新も自立経済の達成も国民生活の充実も、これなくしては到底考えられないと訴え、これに端を発して加速していった新党運動は、翌三十年十一月十五日、自由民主党の結成につながりました。
かつて、昭和三十年の保守合同に際して、当時の緒方竹虎自由党総裁は、保守合同は爛頭の急務なりと喝破されました。私が今同じように考えるのも、二十一世紀に向けて国家百年の計を立てるに当たり、政治の安定が第一に重要だと思えばこそであります。 自自公三党による連立政権の目的も政治の安定にあります。
それで、昭和三十年、一九五五年に緒方竹虎先生と三木武吉先生が自主憲法を制定しようということで保守合同をされ、吉田自由党と鳩山民主党が現在の自民党の結党につながり、そして自民党の党是として、憲法を改正して独立国としての自主憲法を制定するということで自民党が発足、結党されました。
緒方竹虎であるとか吉田茂であるとか、見事な映像の人たちがいたじゃないか。せめてそういう存在になれば、次にいい世代が育ってくる、そうやっていいのが育ってきたら次に渡す、それで日本はよくなっていく、世界はよくなっていくんだと私は思うんだね。違いますか。 医者になりたいと思った人は、ちょっと古いけれども、野口英世の物語を小学校の教科書で読んで、おれはああいう人間になると思うんだ。
当時政界で活躍中の石橋湛山、緒方竹虎、三木武吉、浅沼稲次郎氏等の先輩にあこがれ、国会議員たる事を志しました。 あれから二十五年、ただひたすらに国のため、ふるさとのためと走りつづけて参りました。今、二十五年の歳月を振り返ると、院にあっては商工委員長、予算委員長等の大任をつとめ、厚生大臣、自治大臣・国家公安委員長、通商産業大臣等の要職も大過なくつとめさせていただきました。
昭和二十年八月、我が国が混乱と廃墟の中で終戦を迎え、東久通内閣が成立するや、先生は緒方竹虎国務大臣に請われてその秘書官を務めることになり、戦後の困窮にあえぐ民衆の声を首相に伝えるという重要な任務に従事され、大臣の片腕となって終戦処理に奔走せられたのであります。 同年十月、東久通内閣の総辞職により退官された先生は、一たん郷里に帰られ、農業に従事されました。
ただ、先生がたまたまお名前をお挙げになりましたが、私の郷土福岡県の出身の政治家といたしましては、例えば保守では緒方竹虎先生等々非常に著名な方がいらっしゃいますが、革新側といたしましては松本治一郎先生は郷土を代表する政界の巨魁であるというふうに私ども誇りに感じているのでございます。
私は、郷里福岡の大先輩である緒方竹虎先生がかつて政治の刷新を訴え、保守合同こそ爛頭の急務と言われたことを思い出します。今日、爛頭の急務とは何かといえば、私は、今国会ので音る限り早い時期にPKO法案を成立させることだと信ずるものであります。 そこで、総理は、PKO法案の早期成立のためにこれからどのような政治的努力を傾けられる御決意であるか、この点をまずお尋ねしたいと思います。
かつて緒方竹虎翁が保守合同について言われたことを私も直接に記憶いたしておりますが、まさに我が国がこの新しい世界の流れの中で国標的な貢献、あるいは村上議員のお言葉では責務を果たすときに当たって、このPKOによる、いわば国連の持つノーベル賞を与えられたような平和維持活動、我が国がこれに直接参画できるかできないかということは非常に大事な問題であろうと思います。
大山郁夫、石橋湛山、浅沼稲次郎、大隈重信、永井柳太郎、緒方竹虎、こういう諸先輩の名前の演説集が載っておるわけです。その中で、特に、先日も中山議員からお話がありました斎藤隆夫代議士の昭和十五年二月二日の第七十五帝国議会における演説集も載っておるわけであります。ここで斎藤議員は、「聖戦の美名に隠れて」、こういう題での演説をしておるわけであります。
早稲田では、先輩である中野正剛、緒方竹虎両氏の指導を仰ぎ、幾度か中国を旅し、卒業論文のテーマを「孫文」として、中国の偉大さを書かれました。時あたかも、軍部の戦線拡大方針は泥沼に陥り、戦況思わしからざる中、時流に抗するかのごときこの論文は全面書き直しを命じられたのでありますが、先生は、正しいものは正しいと筋を通し、卒業を二週間後に控えて断固退学されたのでございます。
ですから、太平洋戦争を終わらせようということで、緒方竹虎さんが朝日の論説委員であった佐々弘雄さんとあの段階で終戦の工作をしたことがあり、私も多少関係があったものですから、緒方さんなんかに当時会っていろいろ発言したこともありますけれども、あれだけの戦争しておって、日本が勝ったか負けたかじゃなくて、日本の国土の上で戦争始めたら、これはもうこんな悲惨なことはないんです。
私の学びました中学校は、福岡県立修猷館という黒田藩につながる歴史と伝統を持った由緒ある学校でありましたが、皆さん方にとっても先輩議員であります、あの戦争中、東条軍閥に抗して自刃した中野正剛、「落日燃ゆ」の悲劇の宰相廣田弘毅、爛頭の急務と叫んで総理・総裁の座につく寸前に惜しくも倒れました当時の自由党副総裁緒方竹虎、日本社会党創設の重鎮三輪壽壯、これすべて我が修猷館の私の先輩であります。
きのうも聞いたんですが、昭和二十九年五月三十一日の参議院内閣委員会、当委員会での緒方竹虎副総理の答弁、もう一国言いますよ。「厖大な事務局を置くことは、ややともするというと、そこに一つの既成の考えを以て、一つの会議を動かすような力になる虞れがあります。過去においてもそういうなにがありますので、これは私は事務局を置かないというところに政治的の意味があるように考えておるのであります。」。
これも昭和二十九年五月三十一日の当内閣委員会で、時の副総理の緒方竹虎大臣は、国防会議の事務局について、こういうふうに答えておるのが非常に私は大事なことだと思うんです。それは「国防会議に厖大な事務局を置くことは、ややともすると、一つの既成の考えを以て、一つの会議を動かすような力になる虞れがあります。
やがて、昭和二十五年、北海道開発庁が新設され、君は、選ばれて同庁に入り、開発担当官、開発専門官を歴任され、二十九年には、本院議長であった当時の大野伴睦北海道開発庁長官の秘書官、引き続き緒方竹虎開発庁長官の秘書官につかれたのであります。