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489件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2016-11-24 第192回国会 衆議院 憲法審査会 第3号

昭和二十九年四月、吉田内閣においてMSA協定が審議されている際、九条における自衛戦争許容性について、この審議会でも出された資料にもある二十一年の六月の自衛戦争をも否定する吉田総理答弁を持ち出して批判したところ、言論人として朝日新聞副社長も務めた緒方竹虎総理国会答弁として次のように述べています。  

山下貴司

2015-06-11 第189回国会 衆議院 憲法審査会 第4号

そもそも、内閣による政府解釈変更の是非については、MSA協定国会審議において、吉田内閣自衛権に関する解釈変更について問われた緒方竹虎総理が、内閣の閣議によって公式に決めれば、前と解釈が違っても差し支えないと答弁し、続いて答弁に立った佐藤達夫内閣法制局長官、これは憲法制定に携わった方ですが、内閣内閣において正しいと信ずるとてその憲法解釈を打ち出すことは理論上は当然としています。  

山下貴司

2012-08-03 第180回国会 衆議院 環境委員会 第10号

福井委員 時間が参りましたのでこれで終わりますけれども、先ほど配らせていただいた紙の「爛頭急務」というのは、緒方竹虎保守合同の際に檄文を書きまして、自由党も解党、民主党も解党して自由民主党、人数が多い方の民主党は下にして、鳩山一郎としてはすごい太っ腹で、吉田茂の方を上にして自由民主党という名前にしたぐらいの保守合同昭和三十年。

福井照

2011-06-17 第177回国会 参議院 東日本大震災復興特別委員会 第5号

舛添要一君 もう時間がなくなりますから時間厳守で参りたいと思いますが、昭和十八年の元旦東京朝日新聞緒方竹虎に頼まれて、私の郷里福岡先輩である中野正剛が「戦時宰相論」という文章を書いている。東条英機はそれを見て、俺を皮肉って批判したなと言って発禁処分にするんですね。  実は、時間があればそれ全部紹介したいんですが、是非それは秘書官に言って、今日じっくりお読みいただいてください。  

舛添要一

2000-02-01 第147回国会 参議院 本会議 第3号

かつて、昭和三十年の保守合同に際して、当時の緒方竹虎自由党総裁は、保守合同爛頭急務なりと喝破されました。私が今同じように考えるのも、二十一世紀に向けて国家百年の計を立てるに当たり、政治の安定が第一に重要だと思えばこそであります。  自自公三党による連立政権の目的も政治の安定にあります。

村上正邦

1998-01-30 第142回国会 衆議院 予算委員会 第9号

緒方竹虎であるとか吉田茂であるとか、見事な映像の人たちがいたじゃないか。せめてそういう存在になれば、次にいい世代が育ってくる、そうやっていいのが育ってきたら次に渡す、それで日本はよくなっていく、世界はよくなっていくんだと私は思うんだね。違いますか。  医者になりたいと思った人は、ちょっと古いけれども、野口英世の物語を小学校の教科書で読んで、おれはああいう人間になると思うんだ。

鈴木恒夫

1994-10-13 第131回国会 衆議院 本会議 第5号

当時政界で活躍中の石橋湛山緒方竹虎、三木武吉浅沼稲次郎氏等の先輩にあこがれ、国会議員たる事を志しました。  あれから二十五年、ただひたすらに国のため、ふるさとのためと走りつづけて参りました。今、二十五年の歳月を振り返ると、院にあっては商工委員長予算委員長等の大任をつとめ、厚生大臣自治大臣国家公安委員長通商産業大臣等の要職も大過なくつとめさせていただきました。  

鯨岡兵輔

1992-12-03 第125回国会 衆議院 本会議 第6号

昭和二十年八月、我が国が混乱と廃墟の中で終戦を迎え、東久通内閣が成立するや、先生緒方竹虎国務大臣に請われてその秘書官を務めることになり、戦後の困窮にあえぐ民衆の声を首相に伝えるという重要な任務に従事され、大臣の片腕となって終戦処理に奔走せられたのであります。  同年十月、東久通内閣の総辞職により退官された先生は、一たん郷里に帰られ、農業に従事されました。

山口鶴男

1992-03-12 第123回国会 衆議院 予算委員会第八分科会 第2号

ただ、先生がたまたまお名前をお挙げになりましたが、私の郷土福岡県の出身の政治家といたしましては、例えば保守では緒方竹虎先生等々非常に著名な方がいらっしゃいますが、革新側といたしましては松本治一郎先生郷土を代表する政界の巨魁であるというふうに私ども誇りに感じているのでございます。

山崎拓

1992-01-29 第123回国会 参議院 本会議 第2号

私は、郷里福岡の大先輩である緒方竹虎先生がかつて政治刷新を訴え、保守合同こそ爛頭急務と言われたことを思い出します。今日、爛頭急務とは何かといえば、私は、今国会ので音る限り早い時期にPKO法案を成立させることだと信ずるものであります。  そこで、総理は、PKO法案早期成立のためにこれからどのような政治的努力を傾けられる御決意であるか、この点をまずお尋ねしたいと思います。  

村上正邦

1992-01-29 第123回国会 参議院 本会議 第2号

かつて緒方竹虎翁が保守合同について言われたことを私も直接に記憶いたしておりますが、まさに我が国がこの新しい世界の流れの中で国標的な貢献、あるいは村上議員のお言葉では責務を果たすときに当たって、このPKOによる、いわば国連の持つノーベル賞を与えられたような平和維持活動我が国がこれに直接参画できるかできないかということは非常に大事な問題であろうと思います。

宮澤喜一

1990-11-05 第119回国会 衆議院 国際連合平和協力に関する特別委員会 第8号

大山郁夫石橋湛山浅沼稲次郎大隈重信永井柳太郎緒方竹虎こういう諸先輩名前演説集が載っておるわけです。その中で、特に、先日も中山議員からお話がありました斎藤隆夫代議士昭和十五年二月二日の第七十五帝国議会における演説集も載っておるわけであります。ここで斎藤議員は、「聖戦の美名に隠れて」、こういう題での演説をしておるわけであります。

池端清一

1990-03-27 第118回国会 衆議院 本会議 第8号

早稲田では、先輩である中野正剛緒方竹虎両氏の指導を仰ぎ、幾度か中国を旅し、卒業論文のテーマを「孫文」として、中国の偉大さを書かれました。時あたかも、軍部の戦線拡大方針は泥沼に陥り、戦況思わしからざる中、時流に抗するかのごときこの論文全面書き直しを命じられたのでありますが、先生は、正しいものは正しいと筋を通し、卒業を二週間後に控えて断固退学されたのでございます。  

松前仰

1989-04-11 第114回国会 参議院 外務委員会 第3号

ですから、太平洋戦争を終わらせようということで、緒方竹虎さんが朝日の論説委員であった佐々弘雄さんとあの段階で終戦の工作をしたことがあり、私も多少関係があったものですから、緒方さんなんかに当時会っていろいろ発言したこともありますけれども、あれだけの戦争しておって、日本が勝ったか負けたかじゃなくて、日本の国土の上で戦争始めたら、これはもうこんな悲惨なことはないんです。

中村哲

1988-03-22 第112回国会 衆議院 本会議 第9号

私の学びました中学校は、福岡県立修猷館という黒田藩につながる歴史と伝統を持った由緒ある学校でありましたが、皆さん方にとっても先輩議員であります、あの戦争中、東条軍閥に抗して自刃した中野正剛、「落日燃ゆ」の悲劇の宰相廣田弘毅爛頭急務と叫んで総理総裁の座につく寸前に惜しくも倒れました当時の自由党総裁緒方竹虎、日本社会党創設の重鎮三輪壽壯、これすべて我が修猷館の私の先輩であります。

楢崎弥之助

1986-05-21 第104回国会 参議院 内閣委員会 第10号

きのうも聞いたんですが、昭和二十九年五月三十一日の参議院内閣委員会、当委員会での緒方竹虎総理答弁、もう一国言いますよ。「厖大事務局を置くことは、ややともするというと、そこに一つ既成考えを以て、一つ会議を動かすような力になる虞れがあります。過去においてもそういうなにがありますので、これは私は事務局を置かないというところに政治的の意味があるように考えておるのであります。」。

内藤功

1986-05-20 第104回国会 参議院 内閣委員会 第9号

これも昭和二十九年五月三十一日の当内閣委員会で、時の副総理緒方竹虎大臣は、国防会議事務局について、こういうふうに答えておるのが非常に私は大事なことだと思うんです。それは「国防会議厖大事務局を置くことは、ややともすると、一つ既成考えを以て、一つ会議を動かすような力になる虞れがあります。

内藤功